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2012年8月23日木曜日

【Ireland Live Report2012】✈ただ生きるため、アイリッシュが夢見た新天地をめざして~タイタニック最終寄港地コーブを歩く・・・TITANIC 100 COBH 2012,Ireland✈





アイルランドからアメリカに移住したアイリッシュは700万人になると言われています。

アイルランドのコーブ港から、ただ生きるため船に身を委ね、まだ見ぬ未開で、安住とされる地かもわからないところを目指す・・・・当時のアイリッシュはどんな思いをいだいていたのでしょうか?

アメリカ新世界への移民の歴史的記録は17世紀に始まり、当時5万人から10万のあいだの人々がアイルランドをあとにしましたが、その大部分は年期奉公人として移住した人々たちでした。残りはアイルランド人反逆者や凶悪人、つまり囚人だったそうです。

1845年から50年にかけてのアイルランド大飢饉に先だつ半世紀の間、おおよそ100万人のアイルランド人が北アメリカに渡り、その約半数がカトリックでした。そして大飢饉時から現在に至るまでに、さらに550万人もの移民がアイルランドからアメリカへやって来ており、その大部分もカトリックでした。



多くのアイリッシュがアメリカを目指した契機になった大事件~じゃがいも大飢饉。当時アイルランドで使われていたジャガイモは「ランパー種」という品種で、特に疫病に犯されやすいタイプでした。実際、当時天候不順による強い風が胞子を各地の畑に飛散させ、、瞬く間にアイルランド全土にこの胞子が広がってしまったのです。当時アイルランドでは不作が続いていたため、アイルランドで食べるものがなくなり、結果、保存しなければいけない種イモまで食べてしまいます。その為に翌年には作付け面積が減った上に、前年からの天候不順が続き、さらに不作が続いたのです。そんな状態が1848年まで続きました。


世紀の大飢饉・・・・
アイルランドから米国にほうほうのていでたどり着いた船には疫病にやられ無数の死体だけ積んだ船が到着したといいます。
そこでアメリカではアイルランドからやってくる移民船のことを「棺桶船」と言って恐れたそうです。
アイルランド,ウエストポート近くにナショナルフェミニンメモリアルがあるのでいつか足を運んで下さればと思います。


また、アイルランド史上最大の皮肉の一つが合衆国へ渡ったアイルランド人移民の中で、短期の里帰りであれ、永住目的であれ、自らが生まれた土地へ帰った人がほとんどいないという事実です。
アメリカへ渡ったイタリア人移民のうち、永住するため母国へと帰った人は40パーセント、ポーランド人とハンガリー人では50パーセントを超える人々が帰っていきました。また、ギリシャ人移民では、生まれた国へと帰った人の割合は60パーセント以上に達しました。しかし、新世界へ渡ったアイルランド人移民のうち、一度でも「母なるアイルランド」へ帰った人は、驚くことに10パーセントを下回っているのです。




苦難の歴史を今に伝えるコーブ港も、タイタニックの最終寄港地として映画などで一躍世界に知られるとことなりました。
そして今年はタイタニック「没後」100周年、町では様々なイベントが開催されています。

しかし、コーブの歴史、もっと言えば苦難の歴史をアイリッシュは決して忘れることなく、ゆっくりと時は流れている、それがコーブの真の姿なのかもしれません・・・・





















































































【☨日本人が知らない✰✰✰アイルランド✰✰✰well-kept〚IRL〛secret place☨】~タイタニックに隠れたもうひとつの「大沈没」、ルシタニア号の悲劇を偲んで~Lusitania Memorial, Cobh, (Co Cork )~2012年7月掲載/再掲

昨日もカリブから超大型客船が入港したアイルランドのコーヴ港、海岸から水深が極端に深くなる天然の良港で、古くから大型客船・貨物船の寄港地として世界的に有名だ。
そのコーブの町にひとつ目立つモニュメントがある。ある友人が「移民先のアメリカ・フィラデルフィアにあった銅像と同じ」とあらぬことを言っていたが、このモニュメントは是非記憶に止めておくべきであろう。
「ルシタニアメモリアル」~タイタニックは知っていてもルシタニアは案外日本人に知られていないらしい。

事の概要はこうだ。
第一次世界大戦中の1915年 ニューヨークからリバプールへ向かいアイルランド沖を航行していた英国籍の客船ルシタニア号がドイツ海軍Uボートの魚雷によって僅か18分でアイルランド:キンセール沖で沈没、米国人128人を含む1198人が犠牲となった。

ルシタニア号の積み荷には173トンの弾薬が有り、当時の国際法に照らし合わせると、ルシタニア号は攻撃を受けても合法。ドイツ大使館も事前に米国民へ「船に乗るな」と警告を発していた。

NOTICE!
TRAVELLERS intending to embark on the Atlantic voyage are reminded that a state of war exists between Germany and her allies and Great Britain and her allies; that the zone of war includes the waters adjacent to the British Isles; that, in accordance with formal notice given by the Imperial German Government, vessels flying the flag of Great Britain, or any of her allies, are liable to destruction in those waters and that travellers sailing in the war zone on the ships of Great Britain or her allies do so at their own risk.
IMPERIAL GERMAN EMBASSY,
Washington, D.C. April 22, 1915



しかしながら実際、このルシタニアの積荷送状は大統領以外開封禁止にされたため、その後の論争の的となった。
かくもルシタニア号はドイツ軍の攻撃にさらされる。

Uボートからの魚雷撃沈という、ドイツの野蛮な攻撃に対してアメリカの世論は激怒。これによって、それまで中立であった米国議会でも反ドイツの雰囲気が強まり、アメリカも参戦する契機となったのである。

しかし、大変だったのは当のアイルランド人だ。アイルランド沖に浮かんだ遺体を寄港地であったクイーンズタウン(コーブ)に運び埋葬したのだが、収容されなかった遺体も多かった。
また生存者救援(生存者762名)のために米国アトランタに向かうアイリッシュも多かった。(この辺がアイルランドの国民性をよく表している)

多くの犠牲者と、救助活動に全力を尽くしたアイリッシュへのレクイエム、それがこの「ルシタニアメモリアル」なのだ。

ルシタニア号沈没にまつわる話を2つ。

実はこのルシタニア号をはじめタイタニック号、「カナダのタイタニック」と言われる Empress of Ireland号と3つの「大沈没」を味わいながら(乗船していながら)生き残ったという「都市伝説的」なアイリッシュがいる。
名前はFrank "Lucky" Towerというらしい。給炭機関員だったようだ。
らしい、というのは乗船名簿にこの名前が共通してないのだが、当時のアイルランド新聞などの取材記事から、よく似た風貌、また筆跡が似ている、名前が少し違うなど情報が錯綜し確固たる3隻の船に乗っていたという「確証」が無くこの話題は歴史愛好家の議論の的のようだ。

かりに、この3回の悲劇に遭遇しながら生存していたとすれば、相当の強運の持ち主であろう。アイリッシュはみな存在を信じているようだ。

またこのルシタニア号は謎が多く、それが題材の的となりがちだ。
海底に沈む沈没したルシタニアの残骸をめぐる保有権の争いなどはアイルランド政府も関わり長期に渡り係争中であった。
そしてつい最近、アイルランドコークベースのテレビプロダクションがハイビジョンにて撮影。本年もうまもなくの7/15ゴールデンタイム、「ルシタニア号の真実」がナショナルジオグラフィックで放送される。非常に面白そうなので日本のナショジオでも是非放送してもらいたいものだ。

とはいっても沈没は1915年。最後のルシタニア号生存者も2008年に他界。
今後はルシタニアの永久自然保存を巡る議論が強まりそうだ。
そして歴史を風化させないためにも、後世に沈没の真相を伝える必要があろう。



































(Report:TORU TAZURA Irish Network Japan  23,Aug 15:00PM :Republic of Ireland Local Time)